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高度成長期に子供時代を過ごすと、数年おきに世の中が未来になるのを実感できる仕組みだった。
僕の場合であれば、手回しの絞りローラーが付いている洗濯機が2槽式の脱水機付きになり全自動の1槽式に変わって行ったり、白黒のテレビがカラーになり回転状のチャネル切り替えスイッチがボタン式になり取り外し式のタッチボタン/リモコンになったり、(最初から電気冷蔵庫だったが)製氷室がフリーザー付きの2ドアになり乾燥防止機構の野菜室が付いた3ドアになり、そういうことが1960年代から1970年代中頃にかけて起きた。
数年たって買い替えれば必ず、新しい未来が製品とともにやって来た。
80年代になるとそういう機能的な進歩の代わりに、バリエーションが増えた。サイズであるとか色であるとか端的にデザイン性であるとかだ。
それでもカラフルな未来と言えなくもなかった。
が、90年代になるとそういうものが完全に止まってしまった。
それでもコンピュータはOSと共に世代が変わる都度新たな未来を表出していなくもなかった。
でもそれも0年代には打ち止めた。
代わりにスマートフォンが出てきたが、単に高速化してカメラの撮影結果がきれいになるだけで、2000年以降で本当に何かそれまでにはない未来が見えたのは、HDを搭載したiPodが出てきて、持っているCDすべてこの小さなデバイスに入るんだよ! と示されたときだけだ。携帯電話のブラウザーとスマホもその瞬間にはそれなりの未来が見えなくもなかったが、小型化したコンピュータと言えばそれまでだ。
とは言うものの、そういう買い替えると何か未来が少しずつ近づく感触を得られる製品(そこがフロンティアなわけだが)が完全になくなったわけでもない。
それが自動車で、7年くらいで買い替えるわけだが、その都度、その前には自分の所有物に付属していることはあり得ないような高価な仕組みや、そもそも存在もしていなかったような機構が、本体と同時にやって来る。
というわけで、自動車だけは消費が単なる交換ではなく、何か未来を手元に引き寄せるための楽しさがまだ残っている。
おそらく70歳過ぎたら免許返納でますます運転人口が減少する現在から、死ぬまで乗れる自動車になるまでこの調子なら進みそうで楽しみだ。
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