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妻と世田谷文学館の原田治展「かわいい」の発見を観に行った。
一応駐車場があるようなので、地図を見ると駅に近いし、いざとなればタイムスとかもありそうなので車で行った。
すると、駐車場の場所はすぐわかったのだがどうも勝手が違う。先行する車がリフトに乗ったのだが、運転手が出てこない。
えらく時間がかかって係員に呼ばれてリフトの前に進めて妻が下車する。
しばらくすると、係員が妻に気づき、待っているのなら車に乗れと指示する。妻が怪訝そうな顔をしながら乗ってきたので、運転手が出てこなかったから、回転式パーキングではなく、駐車場へ車を運ぶエレベータなのではないか? と言う。係員は妻だけ先に入館すると考えて最初に降りた時点ではスルーしたのだろう。
しばらくすると係員がトランシーバーで何か話した後、こちらに来て、これから出庫する車がいるから表に出て待て、と告げた。で待った。すごく待った。どえらく待って、車が出てきて、やっと番になった。
すごく狭そうだがドアミラーを畳む必要が無い程度には幅があるエレベータの中に入ると、係員が最初に確定ボタンを押してからB1を押せと言う。
ボタンを見るとえらく遠い位置にあって、手が届かない。そのくらいしてくれりゃいいのにと思ったが、どう考えても係員が入る隙間がない(届かないのはボタンのある壁から距離があるのではなく、ボタンがドアミラーより前にあるからだ)。これはしょうがないと、扉を細めにあけてどうにかボタンを押した後になって、妻が、こっちのほうが押しやすそうだから押そうか? と言いだしたがもう遅いよ。確かに左側のボタンのほうが押しやすい位置にある。
で、扉がしまると矢庭に車が90度回転してびびる。なんかむちゃくちゃおもしろいのだが、動作が途轍もなく緩慢だ。
回転板が固定されたらしく下り始めるが、これがまた遅い。かっての青山紀ノ国屋のエレベータよりも遅い。
なるほど、こりゃ時間がかかるはずだ。普通の人の脚なら、駅から2往復はできる。こんなに暑くなければ京王線で来るほうが正しいのだろう。
と、入館前からいろいろな文学的体験がありまくって期待しまくりとなった。
原田治は妻がオサムグッズ好きなので意識するようになったがすでに30年以上前の話だ。妻が持ち込んだ缶だのタオルだのは、最初はあまりに好みとは異なるので感心しなかったのだが、そのうちかわいいものはかわいいと思えるようになってむしろ好きになった。
わざわざつきあってくれた? とか聞かれたときに、いや、おれも好きだから楽しみだ、と虚心に答えたのは本当のことだった。
2階の特設会場に行くと、写真撮影はOK、ただしフラッシュはたかないこととか書いてある。商業デザイナーの作品の展示とはこういうことですか! と、不意打ちを食った気分になる。
まさにポップだ。
最初に生涯が書かれている。1946年ということは敗戦の翌年生まれで、子供ころから画家に師事して、青山学院の中、高と進み、画家の先生に画家になれるか? と聞くと、実家が太くて遊んで暮らせるなら画家になれると教わって、商業デザインに進むことにしたというようなことが書いてあっておもしろい。
おもしろいが、小学校の絵日記(妻曰く、両親が保存しているところが既に裕福な家庭)が展示されていて、家庭教師が家に教えに来てくれて勉強したあと、画家の先生の家に行ったというようなことが書いてあって、妻が、やっぱり裕福な家だと言うのだが、でも画家にはなれない程度には裕福ではないじゃんと言ってみる。
同じく小学生のころの写生を見ると建物が透視図法できちんと書いてあって基礎がちゃんとあってのかわいいデフォルメなのかなとか思うというか、OSAMU GOODSの絵はすごくぺったりしているのに立体感があるのはこの辺にあるのかなとか考える。
紐育の修業時代の作品からアメリカ文化の何を学んだのかが見えておもしろい。
大瀧詠一なんかと時代精神を共有しているのだなと思い、ああ、まさに1970年代後半~80年代の文化の先っぽの一人だったのだな、と感慨がある。ハリウッドランチマーケットやオキドキなんかに通じるものがあるわけだ。
で、an・an時代に突入。少しも知らなかったがペーター佐藤とコンビを組んでいたのか。
街ガイドのイラストがすでにオサムっぽい。
えらく感心したのは、こういうイラストが細かく作られていて、それをおそらく編集者がペーター佐藤のものや地図と組みあわせて誌面を構成していることで(誌面がまず展示されている)、エディトリアルデザインが抜群なことだ。
これはとがっているはずだと感心する。おれの中では、マガジンハウスのan・anに対して集英社のnon-no、マガジンハウスのPopyeに対して講談社のホットドッグプレス、マガジンハウスのブルータスに対して小学館のDIMEという、雑誌カテゴリでのアンテナ:マーケットという関係があったのだが、エディトリアルデザインの力の入り方がまさにその図式そのものだ。
それはそれとしてan・anの切り抜き類はおもしろい。キラー通りの今はサラダバー、その前は靴屋の前は帝人ショップの場所がVANだったころのストリートマップがあって、今や廃屋のパスタンがあり、今も生き残った福蘭がありの間にBIGIが宮廷マンションのあたりにあって、へーそうだったのかとかいろいろ知っているもの、知らないもの、覚えているもの、まったく気づきもしなかったものがたくさんあって記憶が刺激されまくる。
で、an・anを出発点としてOSAMU GOODSが1976年に始まるらしい。
が、それ以上に驚いたのは気付かないだけで山ほど原田治の作品を見ていたことだ。
半蔵門線に乗れば(営団ではなく田園都市線、東急の車両だと思う)クマが危ないよ! と注意しているのだが、これが原田治。
崎陽軒のシウマイの醤油瓢箪が一時絵柄が変わったなと思っていたら、これが原田治。
というか、カルビーポテトチップスのジャガイモが原田治。
ポッキー(プレッツエルかも)の箱の絵(この箱は見た覚えがない)で、パッケージデザイナーか代理店のクリエイティブかとやり取りした下書きが何点か展示してあって、「お前のクソデザイン案だと襟がうるさいからTシャツにしろ」「お前のクソデザイン案だとカップじゃなくて湯飲みにしか見えないから、取っ手をつけてやったぞ」「指だけ出したら気持ち悪いだろ、腕を示した方が良いぞボケ」とかをきれいなビジネス用語で書いていて、おお、大人の商業世界の人間だと思う。プログラマもクソコードとか言ってはいけないとかちょっと考える。
パッケージデザイナーだか代理店のクリエイターにもこだわりがあるようで、襟はなくっているし取っ手もついたが、カップは宙に浮いているのが最終製品になっていて、これもおもしろかった。
さらに見て行くと構造と力の装丁が原田治。そうだったの?(原田治を家に持ち込んだのは妻だと思っていたら、おれも持っていたわけだ)
で、当時からポップな北園克衛(ちょっぴりモンドリアン風味)と思っていたわけだが、原田治自身が北園克衛の強い影響下にあったことを知り、かわいいと北園克衛の間についていろいろ考える。
晩年の原田治は東京湾の小島にアトリエを作り、発表しない抽象画を描きまくって過ごしたとある。唯一公開した作品の黒い船(というような名前)の連作があって、なぜ発表せずに自分のために描き続けたのかなんとなくわからなくもないような気になった。公表されている作品自体は素晴らしく良いのだが、あまりにデザイン的に洗練された北園克衛風味なのだ。それなりに孤独でありぼうとした心象があり印象はあるが、本人としてはあまり公表するような性格の作品ではなかったのだろうなぁ。
(で、おれは北園克衛が日本の詩人では萩原恭次郎と同じくらいに大好きで、なんか不思議な気分となる)
最後、一室を使ってOSAMU GOODSの一大パレードとなる。
マザーグースだったのか! と背景を知りすごく納得しながら、コンセプトを見ると、かわいいとは明るく楽しく、でもそこに一抹の寂寥が加わることというような定義があって、これまた納得する。かわいいは永遠ではないし、そればかりでもない。
70年代後半からバブルが崩壊するまでの世界は見事なまでに崩壊するまで突っ走っていた、その崩壊をほんの少し予見させるものでなければならなかったのだ。
実におもしろかった。良い時代をお互い過ごせたよな、と妻を眺める。
1階の常設展(?)のほうも眺める。
ムットーニという人のからくり本の上映というかからくりが動作するのを待つために、仁木悦子の展示を見る。
おれ、この人の本を読んだことないなと思いながら展示されている説明や他の作家との書簡などを眺め、こんなおもしろいのかと目からうろこがばりばり落ちる。作家の書簡のおもしろさを初めて理解した。
特に寺山修司との大量のやり取りがおもしろい。
きっかけは、雑誌で仁木が半身不随で動けないことを知った、詩集を自費出版したばかりのネフローゼで身動き取れずに療養中の寺山が手紙と詩集を仁木に送り付けたところから始まる。
原稿用紙に書いた手紙だ。
すごく一方的でなんじゃこりゃと思うのだが、お互い身動き取れない同士で手紙による交流が長く続く。
仁木側の展示だから、展示されているのは寺山のものだが、最初は原稿用紙だったのが、カリグラフィーでビジュアルに凝った自由形式に変わっていったりが実におもしろい。良くわからない虚勢のようなものがあったり、実におもしろい。
筒井康隆の年賀状がこれまたおもしろい。
寅年の年賀状はトラ尽くしでベントラ・ベントラで締めくくってあるし、多分卯年の年賀状は悪いバニーガールが出会う人たちからひどい目にあいまくる短文だし、なるほど、この世界の人たちはこうやって生きているのかと思った。
それにしても仁木悦子は読んだことがないわけだが、出自は江戸川乱歩が、明るく楽しくモダンな推理小説こそこれからにふさわしいと50年代末に推しまくったからだと知って、ああそうかと思った。さすが眼高手低の人(by 山田風太郎)だ。
猟奇的な推理小説や本格は時代を超えやすいのだ。だから高木彬光や横溝正史は読んだことがある。
が、明るく楽しくモダンな推理小説は、おれの時代では仁木悦子ではなく、小峰元だし赤川次郎だったわけだ。だからそれほど推理小説に興味を持たないおれは仁木悦子まで遡る必要がなく、それで読んでいないのだった。
が、一部展示されている作品(既に忘れたが多分、林の家という作品のような)のプロットのノートや、どう文章が構成されているかの分析を読むと、実におもしろそうではないか。というかおもしろいのは間違いがないわけだから(江戸川乱歩の眼力は疑いようがない)、そのうち読むだろう。
(P[に]2-3)林の中の家 仁木兄妹の事件簿 (ポプラ文庫ピュアフル)(仁木悦子)
(が、林の家はKindle版にはなっていない)
で、ムットーニだが、カヴァレリア・ルスティカーナとブラッドベリーの組み合わせは良いとして(これがトリの作品)、特に最初のものは読まれる文章の退屈さと動作の緩慢さがあって気持ちの良いひと時になってしまったが、待て、おれが裕福だったら寝室に30個くらい展示して毎日日替わりで楽しむのにふさわしい作品ではないかと思った。ゴルトベルクとチェンバロを用意するよりも良い。
世田谷の公共施設とだけ覚えていたので間違って美術館へ行くところだったのだが(事前に駐車場情報を調べて気づいた)、なぜ美術館ではなく文学館なんだろう? と不思議に思った(仁木悦子とか見られたので文学館で全然良かったのだが、疑問は疑問)。
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