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翻訳者がTwitterでいろいろ呟いたりRTしたりしているのがおもしろそうなので買って読み始めると、想像以上に絢爛たる文章で、おやこれは久々に本物の文学ではないかと、時たま開いてはちびりちびりと味わっていたのだが、ついに読了してしまった。残念だ。酒は飲まないので想像だが、極上のコニャックをちびりちびりとみたいなのは、こういう感覚なのだろう。
とにかく訳業が素晴らしい。言葉が次々と出て来て世界を言葉で作り出す。
物語はニルス・リューネという19世紀後半を生きたデンマークの何もしない人の誕生(というか父母が家庭を持つところ)から死までを描く。
各章はとびとびに、子供の頃の叔母さんへの思慕のようなもの(死に別れ)、学生になってからの金持ちの未亡人(なんとなくフォンメック夫人とかを想像しながら読んでいた)との馴れ初め、実母とのスイス旅行(母親は老衰死)、戻ってからの未亡人との別れ(相手が結婚)、田舎旅行での従妹との出会い(友人と結婚してしまう)、従妹との不倫(友人が死んだことで追い出される)、旅先でのオペラ歌手との出会い(歌を取り戻したため捨てられる)、知己の娘との結婚と病死、こうやって書き出すとつまるところは女性遍歴なのだが、これっぽっちもドンジュアン的な要素はなく、常に相手の意志に従う形で関係を持ってしまい(最初の叔母さんのは関係は持たないけど、子供だから)相手の意志によって別れる。それにしても、なかなかうまい配分だ。
という内容が結晶の森のような文体で綴られる。
主人公は詩人になりたいのだが、(一応詩作があるようなのは、結婚後にかっての作品を読んで感心したりしている)特に何も行動しないので、そのまま郷人となる。
はて、これは余計者の系譜の文学なのだろうか?
が、そうとは思えない。本人に余計者という意識が全然ないからだ。かといってスタヴローギンのように全能感を抱えながらあえて行動しないというわけでもない。
主人公が強い意志(友人のため、女性のため、母親のため、といったものではなく、自分自身のための)を見せるのは、子供が死にそうなときに無神論者の信条を曲げて神に祈るところと、死んだあとにその行動を全否定するところ、そして最後に恐るべき激痛に呻吟しながら、断固として牧師の召喚を拒否するところだ。わざわざ作者も結婚の申し入れを父親に行うところでは、女性側の意志に間違いないが若過ぎるから自分が切り出す必要があるというような断り書きを書いているくらいに、それまでのリューネはどう仕向けようが、どう手を出そうが、自分の意志で行動したのではないように振舞っている。
一方で死ぬ原因となる義勇兵への志願が実にどうでも良さそうな書きっぷりで示されているのもおもしろい(た、どうでも良さそうな書きっぷりであっても、これまでの女性関係と異なり、これは確実に自分で決断している)。
そこが、どうにも、セリーヌの夜の果てに文学的には繋がっているように見える。ニルス・リューネでは最後に戦争に行く。バルダミュはいきなり軍隊に入隊するところから始める。読んでいてニルス・リューネが19世紀文学ではなく、おれには20世紀文学のように感じるところもその点にあるのかも知れない。
息をするように無神論者であったのに、本当に大切な子供が死にかけたときはついつい神にすがり、それゆえ自分を終わったと感じたように書いている。が、実はそれによって、自分が始まったのではなかろうか。つまり、近代人(神の沈黙と向き合い戦う人間)から現代人(神は存在しないことがわかっているので、もう祈ろうが何しようが全然どうでも構わない)への成長を遂げたのだろう。あとに残るのはどこの誰でもない自分自身であり、自分のために生きるもへったくれもない現代人であり、たった一人で苦痛に呻吟しながら死んでいく。
ニルス・リューネ (ルリユール叢書)(イェンス・ピータ・ヤコブセン)
で、作者のイェンス・ピータ・ヤコブセンというのは全然知らんなぁ(そもそもデンマークの作家はアンデルセンとイェンセンくらいしか知らない)と思ったらとんでもない話だった。
グレの歌の作者だった。
(ボストンの管の気持ちよさとかいろいろあって小澤のを愛聴)
(どうでも良いが、訳者解題には「歌曲」とあるが、実態は歌付き交響詩だし、カンタータとか演奏会形式オペラいうのが正しいのではないかなぁ。もちろん少年の魔法の角笛だって歌曲なのだから歌曲でも良いのだが)
柴田南雄のエッセイにグレの歌のレコード評があって、その中で対訳歌詞に苦言を呈していたのを思い出した。
手元に原書がないので完全なうろ覚えだが、対訳では「グッツェン(これはもちろんでたらめ)夫人よ身を屈めよ、フンディンン(これももちろんでたらめ)氏よ腰を曲げよ」となっているのを、ちょっと待て、これそれまでと全然関係ない人名が出て来て訳者はおかしいと思わなかったのか? 大文字で始まっているから固有名詞と思ったのかも知れないが植物の名前だから「アカザの木のおばさん体を縮こめないと危ないよ、(なんかの木の名前)の木のおっさん、腰を曲げとかないと吹っ飛ばされるよ」で、嵐が来るから植物たちに暴風に備えよと言っているのだから、ひどい訳だというような内容だった。続けて、なんで唐突にこんな植物名(あまり一般的ではない)が出てくるのかと考えたがなんのことはなくヤコブセンは植物学を学んでいるのだった(かくいう誰かもそうだった)とあって、なるほど柴田南雄は植物学を学んだのだったな(小金井なんとかの弟子だったような)と知ったのだった。
というような翻訳者泣かせの作者かも知れないが、訳注を読む限り、ニルス・リューネの翻訳にはそういう心配は全然無さそうだ(というか、読んでいて唐突に変な固有名詞が出て来たりはしないし)。
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