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まったく知らない人だったが世紀末(というと20世紀末ではなく19世紀末を意味することになっている)の戯曲家ということでグランギニョル関係かなと食指が動き購入、読了。
訳者の懇切丁寧な作家と作品の解説を読むと、グランギニョルとの直接の関係は無さそうだったが、とはいえ世紀末風味の戯曲のおもしろさは堪能した。
グランギニョル(という名前の劇場で上演されるリアリズムの残酷劇とそれに良く似た雰囲気の作品群)は、プッチーニの外套がその名前の下に断罪(というか酷評)されたことでしか知らないが、ちょっとの差で道化師やカヴァレリア・ルスティカーナがヴェリズモ(リアリズムオペラ)として高く評価されたのに、同工異曲の殺人劇がグランギニョル風として酷評されるという時代の流れの速さが実に興味深い)
最初届いた小冊子(と呼ぶのがふさわしい判型)を開くと、すきまなくびっちり文字が詰まっていて仰天した。
中には戯曲が4編と訳者によるブウテと諸作品の解題(目次上は「あとがき」だが、あとがきのレベルではない)が収められている。
とりあえず、訳者あとがきは置いておいて、順に読み始めると、想像以上に抽象的(いや当時だから象徴的のほうが正しそうだ)な舞台作品だった。
上のほうでも触れたが、残酷という言葉は、ほぼリアリズム(貧困と飢餓があり人間は動物の一種なので切れば血が流れるし、時間がたてば腹が減る)と同義で、実際この作品群に登場するのはそういう人間たちで、全員が全員、現実の生活にうんざりしている。うんざりした挙句にさっさとかたをつける人間もいる。一篇、「我が言葉を聞け」という作品には妙に達観した人間が世界とは何かを解説しまくるが冤罪(だろうな)によって警官に引き立てられる(おそらく、そうして冒頭の「絞首台の下で」につながる円環が閉じるというか、訳者の構成はおもしろい)。なんとなく、公孫竜の「白馬は馬に非ず」論にうんざりした韓非子が「白馬が馬かどうかを調べるのは簡単だ。白馬を連れて関所をくぐれば良い。税金を取られたらそれは馬だ」を思い出す。
最初の作品の絞首台の下では、3人の絞死人、3人の魔女(とそれぞれのペットというか使い魔の獣)、3人の尼僧が勝手なことを言い合う劇。3人の死刑された死体というと、ゴルゴダの丘の暗喩か? と思わないでもないがとりあえず3で揃えただけのような。まあおもしろい。
2作目の詩人と娼婦と二人の墓堀人はぐっと現実的な情景劇となるが、詩人が出てこないなと思いながら読んでいると死人がいきなり甦って詩的なセリフを吐きまくる。が、墓堀人の仕事の邪魔なので死人に戻す。と筋を書くと訳が分からんなぁ。というか、これを劇場で見ている人たちはどういう気持ちだったのか興味深い。
3作目の雨の夜のタバーンは本書の白眉と僕は考える(訳者あとがきでもリアリズム路線の最高傑作としているが、さもありなん。会心の訳業だろうなぁ)。登場人物が多いが、それぞれ不幸のパターンを背負っている。楽し気な水兵たちを含めて全員が不愉快な明日を不安に待っていて、しかしそれもしょうがないとあきらめきっている様子が抜群におもしろい。特におもしろいのは酒場の主人で、おそらくルーチンワークにうんざりしている(この程度の不幸な連中は不幸ではないという態度だ)。「そこです、旦那!」が抜群(これが一人ではなくもう一人が唱和するように作劇しているところがうまい)。
最後の我が言葉を聞けは、真実の人が空回りする劇。これも好きだが、実にひどい話だ。
読んでいて、作者は不幸な人々の一瞬を切り取りながら、これっぽっちも悲憤慷慨はおろか同情のかけらも示していないことに驚く。少なくとも歴史に刻まれる名作を書くというような意識はまったくなかったのではなかろうか。むしろほとんどの登場人物と同様に状況を楽しんでいる(それで、裏表紙の「筒井康隆への系譜に連なる」となるのだろう)。
要は奇書だ。おもしろかった。
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