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ブリリアホールでミュージカルのダ・ポンテ。
なぜかブリリアではモーツァルトの二次創作を観るのだな。
ダ・ポンテもマドモアゼル・モーツァルトと同じく国産ミュージカルらしい。
ダ・ポンテがニューヨークで自伝を書き上げてイタリア語書店で売りつけようとして失敗するところから物語は始まる。
ベネツィアでカタログの歌のような裁判の結果国外追放されるところから出発する。
流れ流れてウィーンでサリエリに取り入るが最初のオペラは大失敗。サリエリや歌手の求めるままに言葉を変えていったために詩が死んでしまったのだ。
酒場で飲んだくれて音楽家はくそだと叫んでいると、横で詩人がくそなのでおれの音楽が死んだと叫んでいる男と出会う。後宮からの逃走はそんなに悪いものではないが、物語の都合だろう。
かくして二人はタッグを組んでフィガロの結婚を作る。
1幕最後近く、二人が踊ってから歌い始めるところはとても良い。
さらにドン・ジョヴァンニを作る。一般論としてモーツァルトとレオポルドの関係の反映として知られていると思うのだが、この作品ではダ・ポンテ自身の過去のヴェネツィア追放や継母と父親との関係にスポットが当てられていて、おもしろい。
最後、モーツァルトに言われて断固として反省せずに地獄へ落ちるドン・ジョヴァンニを書くが、宮廷官僚に指弾されて最後に無理やりのハッピーエンドを追加される。
結局、プラハでは成功したがウィーンでは失敗する。だが、この作品はこれまで書かれた最高のオペラだ。誰よりもオペラの研究をしているおれが言うのだから間違いないとモーツァルトはダ・ポンテに言う。セリフはいろいろな本から引用しているので、その点もおもしろい。
が、ヨーゼフ二世(とサリエリ)のおかげでコジ・ファン・トゥッテの仕事をもらう。
が、皇帝ヨーゼフ二世が死んでしまったために、ダ・ポンテは追放の憂き目にあう。
一方モーツァルトはシカネーダと組んで魔笛を作り始めている。最初シカネーダの歌詞でパパパが歌われる。モーツァルトは、言葉はいらないんじゃないか? パでいいじゃんと言い出す。シカネーダと相手が試すと、これはばっちり。
そこにダ・ポンテがやってくる。モーツァルトは魔笛にノリノリなのでこれが二人の別れとなる。
かくしてロンドンに流れ着いて野垂れ死にかけたダ・ポンテに鶏とセロリのスープが振る舞われて生き返る。
ちょっと待った、と元のニューヨークに戻る。コジ・ファン・トゥッテはどうだったの?
あれは失敗作だ。思い出したくもない。
そう? あの最後のこんなもんさの詩はあなたらしくて最高よ。
最後、婚約者がころっと転がってしまうところまでは台本はできたのだが、それをどう締めれば良いかわからない。
困ったダ・ポンテはあらすじをモーツァルトに相談する。
それはだな、と長調で締める。
なるほど、喜劇か。
もちろんそうだ。ダ・ポンテは脱稿する。
一方、ダ・ポンテ追放の動きも強まる。実はイタリア人ではなくユダヤ人だということが知れ渡り、ゲットーへ帰れ! と罵声が飛び交う。
そんな折にサリエリと出くわす。お前もおれがユダヤ人だから糾弾するのだな?(この物語の最初で、ダ・ポンテはサリエリと同郷のふりをして同じイタリア人同士として引っ張ってもらっている)と、サリエリは否定する。おれにはイタリアオペラのすばらしさを広めるという理想があるのだ。そのためにはおれの作品が消えてしまっても構わない。でもお前には自分の野心以外の何があるんだ? ダ・ポンテは答えることができない。
海宝直人のダ・ポンテは実にさまになっているし、この人は本当にうまい。
とはいえ、この作品をミュージカルとして舞台で視ているときはまったく退屈はしないのだが、その一方でそれほどおもしろいとは思えなかった。
が、後になって、コジ・ファン・トゥッテ(それほど好きではない。キャンプ場の印象が強過ぎる)だのフィガロだのを観直したくなる。そのくらい、モーツァルト+ダ・ポンテの作品世界とうまく溶け合っている。
というよりも、恋とはどんなものかしらの説明シーンなどは抜群にうまくできている。あの転調の凄みのようなものが実に明解に示される。普通の日本語の翻訳なのか(聞いたことないから知らない)、それとも台本作家の翻訳なのかはわからないが、なるほどこういう歌だったのかと音楽と言葉の融合っぷりに感心した。
言葉はないが、ドン・ジョヴァンニの和音の凄み(先日聞いたばかりでもあったが)。
好き嫌いは別としてやはりモーツァルトはすごい作家だし、それを引き出したダ・ポンテも只者ではない道理だ。
結局、残るものが多かった。ということはおもしろかったのだ。
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