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八犬伝観てきた。
この作品は、もちろん山田風太郎の原作があるから行ったわけだが、映画としてもうまくできていて、実に良かった。
原作は朝日新聞の夕刊連載中に読んでいて、大体忘れているわけだが、四谷怪談を観終わって、奈落の底巡り(見学)をしている馬琴の前に、奈落の天井裏から垢嘗めのようにだらーんと鶴屋南北が登場するシーンだけは忘れようがない。
で、映画もまさにここを物語上の最大の山場/見せ場としている。
芝居が始まると忠臣蔵の鮒侍のあたりで北斎がうんざりして鼻くそほじりながら観ている額縁の忠臣蔵(その時に、忠臣蔵は実話ベースの正義の話だから神、と馬琴は北斎に力説している)の中に不義士田宮伊右衛門の泥沼の悪行を埋め込む構造について、馬琴が南北を詰問する。
南北は平然と、虚の怪談と実の忠臣蔵の足し算、いやそれどころか掛け算、つまりはシナジーを産み出したおれさますげーと言い放つ。
それに対して馬琴は、嘘つき野郎め。何がシナジーだ。てめぇのやったこた、実から虚の引き算で奈落の虚無しか残って無いじゃねぇか。と断言する。
すると南北、いやいやすべてが悪の実こそすべて、実は虚無の虚から実を引いた負の世界こそ、この世の実というものでやしょうと突き放す。
そこで馬琴は圧倒的な四谷怪談という作品の持つ説得力を観せられただけに葛藤するわけだが、それと同時に自分が持つ創作への信念を翻然と悟る。自分はそれまで実が負だからこそ正の虚を描くことで差し引き0に正された世界を描こうとしていると思い込んでいたのだが、実は実こそ0(悪も勝てば正義も勝ち、そこには価値判断可能な実は無い)で、そこに正に正たる虚を上乗せすることで陽に正の世界を読者に提供しようとしていたのだ。
これを演技で表現しているのだから、その点で、明らかに役者の映画であった。馬琴が実に良い。
映画は北斎の、偏屈おっさんの馬琴が凄まじくおもしろい虚の世界を描いていてもそこに(自分が描きたくなるような)画は無いと言うところで始まり(一方、語り聞かされた八犬伝には思わず筆と紙を借りて3枚の画を描く)、偏屈老人の馬琴が1年前まで本を読んだこともなくいろはしか知らないお路に漢字を教えながら八犬伝の完成を目指す姿を外から見て画を見るところで終わる(既に視力を失った馬琴に渡す画は無いので訪ねるのもやめる)。このシーン(の前から)を観ているこちらも北斎のように画が見えるだけに感動的だ。
脚本も映画も虚実を融和させる(それに先立つ明治もので完成させた)山田風太郎の原作を実にうまく生かしている。良い映画だった。
セットも抜群で、渡辺崋山の宗伯の画が飾ってあるのが実に良い。
(本棚のどこかに上下2巻本があるはずだが今度探して読み直してみようか、それとも柳生十兵衛は強いのだを読み返すか、とかいろいろ考える)
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