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新国立劇場でフィレンツェの悲劇とジャンニスキッキを観る。
プログラムによればフィレンツェの悲劇の前奏曲は性交音楽らしいが、薔薇の騎士といい、どうしてこうも猪突猛進のトランペットなのだろうか?(そういえば、スクリアビンの法悦の詩でもここぞとばかりにトランペットだったような。あの楽器の動作のせいか(それを言ったらトロンボーンのほうがさらにふさわしい)、それともあの響きが西洋風なのか、謎だ。完全に別コンテキストとなるが、法悦の詩で最高なのは最後の最後のアフタースリープのパートの美しさだと思う)。
が、この作品はやはり僕にはおもしろくない。リヒャルトシュトラウスのサロメやエレクトラもそうだが、前期のドイツ表現主義の音楽はあまりにやかましくて好きになれない。これがシェーンベルクだと異なるのだが、おそらく調性の有無よりも明確な音高操作(メロディと言って良いかは疑問だが)の有無に依存するのかも知れない。
そういう意味では抒情交響曲もそうなのだがツェムリンスキーの音楽は機械織のタペストリーのようで、どうにもメリハリに欠けるように感じる。もう少し、細かく手縫いの刺繍などを入れ込んで欲しい。
これはツェムリンスキーに限った感覚ではなく、同時期の北イタリア学派のザンドナーイ(といってもフランチェスカ・ダ・リミニしか知らんけど)についても第3幕の圧倒的な箇所を除くと、どうにも退屈に感じる(ただし、物語とテキストがおもしろいので、こちらはオペラとしては退屈しない)。プッチーニやマスカーニのメロディーメイカーっぷりが特殊なのだとは思うが。
というわけで、原語がわからずに字幕を追う限りにおいて、どうにも皮肉なやり取りが続いて、本来はテキストもおもしろいのだろうが、フィレンツェの悲劇は最後の最後、ビアンカが気付かなかったを歌いだすまでえらく退屈(とはいえ、チャンバラはおもしろいけど)する。
とはいえ、指揮と楽団のタペストリーの織り込みは抜群、ビアンカは美しく、シモーネは迫力があり、ギードも悪くなく、セットもなかなか好みで良い舞台ではあった。
この作品のラストをモダン演出にする方法は難しいが、やはりシモーネがお前の美しさに今気づいたと歌いながら首を絞めるくらいしか考えつかない。(ギードに切られた傷で大量出血しながら死ぬというのはないわけではないが)
一方、ジャンニスキッキは何度観ただろうか(舞台はビデオを含めても多分それほどでもないが)。ある点においてはプッチーニで一番好きな作品でもある。
ポップな演出(子供がお化けになったり、最後にどう見ても無価値なベルを持ち運んだり、金貨のやり取り、死体を椅子にしたりなど見せ場が多い)も良いが、ラウレッタとリヌッチョの声が良いので、ジャンニスキッキの「こりゃだめだ」「やっぱりだめだ」への反応箇所のおもしろさなど抜群な舞台だった。
ニエンテ、ニエンテからのオーミオバンビーノカーロのつながりも実にスムーズ、ジャンニスキッキが大柄な革ジャン野郎で威風堂々というのも良い味を出している。
子供が観終わったあと、100年前の作品なのに笑わせどころが現代でも同じってことはいかに人類が笑いについては進歩していないか、とか生意気言っていたが、それを言ったらパパゲーノのアイン・ツヴァイなんか250年も前だが今も通用しているわけだからなぁ。
帰りに高島屋に寄ったがぎりぎり17時台にもかかわらず、意外なほど地下売り場が完売が多くてちょっと驚いた。
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