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妻のお勧めのハーフオブイットをNetflixで観た。
アメリカの田舎町になぜか暮らす中国人父娘。喋るのは苦手だが文筆は得意な娘はクラスメートの代筆(宿題のレポートとか)でやりくりしている。父親は英語の勉強のためと称してテレビで映画を観まくっているのだが、最初に観ているカサブランカはともかく、次がベルリン天使の詩でドイツ映画、最後の方ではチャップリンの街の灯で無声映画と無茶苦茶である。
無職かと思ったら駅長として駅舎に暮らしていることがわかるのだがそれにしては電気代を滞納していたりして経済状況は謎に包まれている。
学校の先生は彼女の理解者で、今回のレポートでは6種類の解釈いずれも素晴らしかった(代筆はばれている)都市の大学へ行けと勧めてくれるが父親のこともありハイとは言えない(地元大学なら無償奨学金が得られるからと言うようなことを言っていた)。
電気代の督促が逼迫したときに向かいのレストランの四男坊にラブレターの代筆を頼まれる。
乗り気ではないがやっているうちに彼女は相手の女性(神父の娘)の知性に惹かれていく。一方四男坊は彼女たちについていくために努力する(努力の成果(見当違いだったりもする)の可視化がいろいろ上手い)。更には中国娘と四男坊はお互いの理解も進み学芸会では抜群のコンビネーションも見せる。
が、人間は複雑であり愛は難しく大胆でもある。
抜群におもしろかった。
この作品が映画として実によいのは、シーンとシーンの有機的な結合にある。脚本も練られている。
たとえば学芸会のシーンは以下のようにつながる。
映画の冒頭で車で通学する連中から、自転車で通学する彼女はチューチューとバカにされる。
このシーンは何度も繰り返されるが、一緒に歩いていた四男坊がそれに対して本気で怒るシーンが挟まる。四男坊とは人間と人間としての繋がりができているからだ。
彼女が学内で孤立しているのはそれ以外にも廊下を歩くシーンで何度も表現される。まるで空気のようにいないように扱われている彼女に対して最初に人間として存在を認めたのが神父の娘で、そこで初めて文学についてまともに話し合える人間の存在を彼女は知ったわけなのだった(おれはこの時点で恋に落ちたとは考えないが、多くの4行解説ではそうではない書き方をしている)。
同じく繰り返されるシーンに、夜中に四男坊がゴミ出しをするシーンがある。
そのうちの1回に、四男坊がゴミ出しをしていると、駅舎の窓の向こうで彼女が弾き語りで自作曲を作っているのを見上げて聞きほれるシーンがある。
学芸会で彼女の直前の演目はクラス(学内で)No.1の座についている神父の娘のステディ(アメリカの学園ものだからそういうのだろうな)の派手なロックバンドで場内を大興奮させている。
そこに、一人で演奏するためにピアノを押して彼女が出てくる。重くてなかなかステージの真ん中に寄せられないため時間がかかり場内がしらける。
四男坊は心配になって舞台袖から彼女を見守る。
やっと彼女の演奏が始まるが、(多分)ベートーヴェンのソナタなので場内のしらけっぷりが半端ではなくなってくるし、彼女はそれを感じ取るため緊張の度合いが異様に高まる。
四男坊はますます心配になって舞台袖から彼女を見守る。
と、ビヨーンという弦の外れた音が挟まる(おそらく誰も使わないのでピアノはホンキートンクになっている)。場内の観客はそれにまったく気づかない(くらいに曲に関心がない)。が、彼女はますますあせりまくって最終的に手が止まる。
場内のしらけっぷりは最高潮に達して帰れコールが出始める。
彼女が帰ろうとすると足元に何かが当たる。ギターだ。押されてきた方向を見ると四男坊が君の曲を演奏しろと言う。
彼女はギターを拾い上げて弾きだす。
帰れコールしようとしていた連中が一応黙って聞き始める。
イントロが長くて観ているこちらがうんざりし始めてくる(当然、観客も同じだろう)頃に、彼女が人生と旅についての歌を歌いだす。観客たちは真剣に聞き始める。
まだ作りかけの曲なのであっさりと終わる。
拍手。
彼女は終わったあと、いつも通りで一人で自転車で帰路につこうとする。
そこに車が止まり、打ち上げに出ろと半ば強引に引っ張られていく。
パーティー会場で四男坊が心配になって彼女をさがすと、他の連中と打ち解けている。
(この後はほとんど学内のシーンはないのだが、彼女が仲間として認められたことは明らかだ)
酔っ払った彼女が不幸なことにならないように、四男坊は家に連れ帰るが遅いので、自分のベッドに寝かせてやる。
朝、神父の娘が彼の家に来てベッドに寝ている彼女に気付く(前に、彼が用意した二日酔いの薬(だと思われる)を口に含んだところで窓の外から彼女の声が聞こえて思わず吹き出す)。
こういった一連の流れが実にスムーズに映画として構成されている。
彼女と四男坊が自転車とランニングで並走するシーンも何度も繰り返される。中盤、四男坊はらくらく並走できるようになる。それがフットボールで生かされまくる。こういったコミカルな演出にも活用される。
と、映画として説明はシーンによって示される。
彼女の父親と母親の関係は曖昧なままにされる。
彼女が5歳のときに死んだということになっている。少なくとも彼女は四男坊にそう語る。
ギターケースの裏に母親と子供の自分の写真が貼ってある。
終盤になって父親は、先生が勧める大都市の大学へ進学して良いと言う。この町にくすぶっている必要はない。お前の母親のように。
死ねってこと? と彼女は問いかける。
もちろん違うよ。と父親は話を打ち切る。
父親がテレビで観ている映画は物語と巧妙にシンクロさせている。
カサブランカは、最後の警察署長とリックが去る姿が映る。ラマルセイユーズが流れる。
これは第三者を介した友情と別れの物語だ。
(これは題がわからない)では汽車を使った別離のシーン、それもお定まりの去る列車を追いかけるシーンが流れる。
ベルリン天使の歌は、人間の眼には見えない天使が人間のために孤軍奮闘する物語で、ラブレターの代筆をして四男坊と神父の娘をとりもとうとしながら神父の娘に惹かれていく彼女に重なる。
街の灯は、謎の紳士から援助を受けて手術をして眼が見えるようになる娘が、最後、浮浪者に金を与えようと手を握って、その感触から誰が自分を援助していたのかを悟る物語だ。
ところで彼女が自分が神父の娘に肉体的な意味での愛を感じるようになるのは温泉浴のシーンからだとおれは読んだ(大抵の4行の宣伝文では最初からということになっている)。それまでは冒頭の落とした持ち物を拾っている間の文学談義、それから代筆のラブレターによるやり取りだけで、肉体を意識はしていないはずだ。たとえば、教師に対して、私は相手を見つけたというようなことを話すときの相手という言葉の意味は、文学批評などを語り合える相手というカマラードの意味しかないと考えられる。
ところが温泉浴のシーンでは明らかな目線で神父の娘の胸をカメラが舐める。一方神父の娘はまったくその気がない(あくまでも男の話以外の話ができるカマラードとしてつきあう)のは、彼女を映すカメラの目線で明らかだ。
筆触というキーワードの使い方。
考えれば考えるほどおもしろい。
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